2003年12月11日(木)
個性化と個別化 

人間は一人ひとりが個性的な存在である。子どもたちの個性をどう認めていくかが課題である。
 子どもたちからは個別化(方法として)と個性化(精神の)を求める声が湧き上がるのは当然であり、それにどう応えるかということは難しい。私が親として教育者に望むのは子の個性を尊重し、言い換えればどの様な個性を持つ子であっても、社会の構成員となるための知識や技能や態度を身につけさせて頂きたいと思っている。
 私は教育現場で働いており、そこでは個性尊重を無限に追求していくべきであると同時に、最低限の社会のルール(他と協調するため)を教えなくてはならいと考えている。これが決まり、規則、必要に応じて同一行動をとるなど、個性の発揮を制限すると思われがちであるが、これらは個別化を制限しているものであり、個性化を制限しているものでない。見かけ上、子どもたちがバラバラに行動していてもそれが個性尊重とは無縁であるということも付け加えておきたい。

小石川植物園

「小石川植物園隣接地でマンションの開発が」という話を知人から聞きました。ここは東京の都心の貴重なビオトーブです。地下住居や駐車場が建設されるようで涌水や池が枯れることが懸念されているそうです。
 詳しくは  http://sengoku_sf.tripod.co.jp/

 この植物園は私が東京の大学に勤めていたころ、よく学校を抜け出して散歩をしていました。いまでも年数回は行きます。正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園(小石川植物園)で、日本最古の植物園であり東大の施設。徳川幕府の御薬園が前身で、明治10年に東大の付属となり一般にも公開されている。面積は約16万平方メートルで近代植物学発祥の地である。特に東アジアの植物研究の世界的センターとして機能しています。
 
  入場料は330円。正門斜め前にあるタバコ屋で販売しています。東京大学に移管後、近代的植物園として再出発。今園内に無数にある巨木は、明治時代に植えられたもので、それから全く伐採されることもなく、巨木の林立する深い森がこの植物園の特徴です。大学所管の植物園でもあり、遊具などの遊びの要素はなく、園内はとても静かです。山あり、池あり、変化のある敷地で、大都市の雑踏をしばし忘れて自然の香りに身を浸すことが出来ます。
 この植物園の魅力は、何と言っても深い深い森です。山の中でもなかなかお目にかかれないような巨木が立ち並び、鬱蒼と茂る森の中にいると、どこまでもこの森が続くかのような錯覚を覚えます。落ち葉を踏みしめる感覚が心地よく、植物園と言うよりは「小石川の森」です。池の周りを歩き、丘に登り、森を抜けてゆっくり一周するのに1時間。皆さんも散歩をしてはいかがですか。(アルコールは禁止です)「小石川植物園を守ろう」という運動が必要だと思える方は、
 sengoku_sf@yahoo.co.jpにコメントを寄せて下さい。

「メディアリテラシー」

「メディアリテラシー」という言葉を教育現場でよく使われるようになりした。しかしそれが何を指すものか、はっきりしてないようです。メディアリテラシーは「メディアを活用する力」、「メディアを見る力」あるいは「メディアを活用する力」などの意味でつかわれているようです。
 新聞、雑誌、放送特にインターネットなどの様々なメディアが氾濫しているなか、子どもたちにメディアをリテラシー(読み書き)する能力の養成が急務ではないでしょうか。
 何のために、メディアを「読み書き」する能力を養成するのかというと、その目的は「メディアを活用するスキル」ではなく「人と人が繋がるためのスキル」であり、そのことを常に考えておかないといわゆる「ネットオタク」を養成するための教育となりかねません。
 私の子どもが通っている学校の情報教育のカリキュラムをみて感じたことです。なんとかしなければと思っています。(学校にいって話してこようと考えています)

「学校ビオトープ」、「読み聞かせ」、「カラオケ」

最近の子どもは、胎教にはじまり、学校、塾、テレビなどと外から得られる(与えられる)情報ばかりで、自らの意志で本を読むこともない。したがって一人で考えることをしなくなっている。いま学校で総合学習が始まり「自ら課題を発見し、考え、解決する力」を子どもたちには難しい。
 そこで重要なのが子どもたちが主体的に行動する原体験である。
 その原体験の場として「学校ビオトープ」を自ら(多くの人の協力を得て)作る活動をしている。原体験には生きものとしての感動させるような体験は欠かせない。
  同じ様に子どもたちには原体験(生きものとしての感動)を提案する場として、「読み聞かせ」があると私は認識している。
 ところが「最近の読み聞かせの現場」をみると、「与えすぎ?」ではないかと思うことがある。読み聞かせの目的である「生きものとしての感動」を体験し、自らの意志で本を読むということを、聞かせている側も、聞いている側も忘れてはいないか。
  読み聞かせする側は、自分の読み聞かせに醉って、聞いている側もそれを聞いて拍手をする。感想を聞いても「楽しかった」、「上手だった」とまるで「カラオケ」状態。「カラオケでいかに高得点と出すかを競っている現場」と、「読み聞かせの場」がリンクして見えるのは私だけでしょうか。
  読み聞かせは本を読んだことのない子どもに本と接する機会を与えるのに効果的であるが、これは本来家庭での仕事ではなかったのではないか。
  また「読み聞かせ」が本来の目的を失ってテレビのように「本は読むものではなく読んでもらう」という誤った認識を子ども植え付けないかを危惧している。
  このように発言すると、あなたは「読み聞かせ」に反対なのと、詰問されるが、反対ではなく「生きものとしての感動を体験し、自らの意志で本を読む」ような「読み聞かせ」を積極的に展開しないといけないものだと考えている。「本を読む技術」だけではなく「いかに子どもが自ら本を読む様になるか」の検討をし、それをベースとした「読み聞かせ運動」を展開してほしい。

(読み聞かせグループで講演したときの要旨)
 主催者は私に「読み聞かせはすばっらしい」。「これからも子どものために頑張ってほしい」とエールを送ってほしかったようです。私としては十分エールを送ったつもりでいるのですが。
  このような話をしているうちに私は読み聞かせには反対、編集者として「本を売るために」発言しているというレッテルを貼られてしまようです。

「空の巣」症候群(「からのす」しょうこうぐん)

 「空の巣」症候群という言葉を知っていますか。先日ある講演会で知りました。(なにを今さらという声が聞こえそうです。
 親鳥は雛鳥が成長して、巣から飛び立ってしまったら、親は餌をとってくる必要はもうなくなります。人間で言えば、子どもが成長して自立したら、お母さんは心にぽっかりと穴があいて、何をしていいかわからなくなってしまう、これを「空の巣」症候群と言うそうです。
 子育ての最中は 「空の巣」症候群の予備軍であるといえます。子どもと離れた時に、親としての魅力を持っていることは、むしろ子どもにとっては、自慢できることになるわけです。子どもも大事にするが、自分の人生も大事にするという、子どもと少し離れた親のほうが場合によっては魅力的だともいえます。この症候群に罹患するのは母さんだけではありません。お父さんも・・・・
 ただし、自立だけがすばらしいことではありません。依存する関係も人間としては必要なことです。だから、自立と依存の程よい関係が大切です。子どもは自立しながらも家族や地域の方を必要とし、必要とされる程よい関係が求められます。
 いま、子どもにしてあげるは、子どもが自立し、依存できるための環境づくり(家庭・地域・学校)です。学校の中では、時間的な制約があり、子どもが興味を持ったり、やりたいことを十分にできない場合があります。そうした場合、学校外でそういうことがのびのびできる場が必要です。これが、学校と地域の役割分担だと思います。
 学校や家庭が必ずしも子どもの居場所になっていない場合があります。
「学校へ行きたくないなあ」とか、「お父さんお母さんがけんかをしているから、この家やだなあ」ということもあります。学校や家庭以外の、「地域の居場所」があり、他で得られないものをそこで得られるということは必要です。地域が分担してその役割を果たしていくことが重要です。

「親の希望(ゆめ)つぎつぎ消して子は育つ」(サラリーマン川柳より)自分の路線とは離れて子どもが成長していく、これが大事です。親の希望どおりには子どもは育たないのが普通だと気づくことです。

○「空の巣症候群」
  http://www6.ocn.ne.jp/~pamela/syndrome2.html#7
○「空の巣症候群」の自己チェック
  http://www.zenyaku.co.jp/health1/karanosu.html
  みなさんも・・・


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