弁慶は紀州田辺の新熊野権現二十一代の別当、湛増の子だといわれています。
長じて比叡山に送られた弁慶ですが、生来の気の荒さのため、一山の嫌われ者になってしまいます。やがて山を追放されて諸国を歴訪していた弁慶は、播磨の書写山の僧と争って学塔を炎上させてしまいます。
学塔を再建するための釘代を献納しようとして、弁慶は夜毎京の町に出没し、平家の公達から太刀を奪い始めるようになりました。そして満願の千本にあと一本というときに、五条大橋で牛若丸と出会います。
牛若丸にさんざんに翻弄された弁慶は、それから後は牛若丸の忠実な郎従として忠節をつくします。
しかし実際には、弁慶のことは、のちに義経が頼朝に追われて京を脱出するときに、『吾妻鏡』にその従臣の中の一人として名が出るだけであり、また『平家物語』でも義経配下の目立たない武将として出てくるにすぎず、その実在については疑わしい点が多いといいます。
実在したとしても、五条大橋、安宅の関の勧進帳、衣川の戦いでの立往生などの活躍は、『義経記』や『源平盛衰記』の作り上げた伝説であるようです。 |