文治元年11月、当初頼朝の代官として都に駐在していた義経らが都から退去すると、頼朝は北条四郎時政を新代官として都に送り、厳しい残党狩りを命じました。義経は、平家の残党狩りにはあまり熱心でなく、頼朝は都の内外における平家の残党の動向に気を揉んでいたようです。
都に入った時政は、「平家の子孫と云はん人、男子においては一人も洩らさず。尋ね出したらん輩には、所望は請ふによるべし」と辻々に高札を立てたので、恩賞目当ての密告が多く集まりました。
中には、平家とは関係のない色白の見目の良い男児を、「あれは、何の中将殿の若君、かの少将殿の公達」と偽って密告する悪質なケースもありました。たとえ父母が否定しても、密告者は、「あれは乳母が申し候、これは介錯の女房が」などと言い張り、十分に調査されないまま無下に幼い命が奪われたようです。幼児は水に沈められたり土に埋められなどして殺害されましたが、年長になると斬り殺されました。その数は七十人にも及んだそうです。もちろんその中には、本当の平家の血縁者も混ざっていました。
武家の習いとして、平家の残党であっても女人は罰せられませんでしたし、男であっても殺されず流刑にされた者もいたので、完全に平家の血が途絶えたわけではありません。また、中には赦されて、頼朝の御家人になった平家の血縁者もいました。 |