1331年(元弘元年)、後醍醐天皇を中心とする倒幕計画が幕府に漏れ、後醍醐天皇は隠岐に流されました。これを元弘の変と呼びます。しかし、後醍醐天皇の皇子である護良親王(大塔宮)と楠正成による倒幕活動は続きました。天皇不在の中、吉野山に隠れていた大塔宮は全国に号令を下し、倒幕勢力を奮起させていました。一方の楠正成は、千早城にこもって奮戦し、幕府軍を悩ませていました。
元弘三年、幕府は大軍を派遣して二人を討とうとしましたが、成果をあげることができません。さらに同年二月、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、船上山を根拠地として積極的に四方を攻略するようになります。
幕府は船上山を討つために、名越高家と足利高氏の二人を大将にし、二手から船上山を挟み撃ちにする計画を立てました。しかし二手に分かれてからまもなく高家は戦死し、大将を失った軍は戦意を喪失して京都へ戻ります。一方の高氏は、その日のうちに天皇側に寝返り、各方面に連絡して同調を求めました。
京都に残る幕府軍(六波羅勢)は烈しい攻撃に堪えられず、ついに京都を放棄して東方へ脱出します。しかし官軍に囲まれた六波羅勢は、五月七日に全滅してしまいます。
残るは鎌倉です。鎌倉を滅ぼしたのは新田義貞でした。大塔宮より令旨を受け取った義貞は、五月八日に挙兵し、激戦が続きました。しかし二十二日、追い詰められた執権・北条高時は自害し、とうとう鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。 |