■ 三大飢饉 ■
 
農村の飢餓の歴史
 
 昔の飢饉というものは、今日では想像もつかないほどの、はげしい破壊力をふるいました。
 生産力が低く、飢えと粗食が日常であった時代には、凶作はただちに生死に直面する問題であったのです。しかし上からの救援の手は、まず期待できませんでした。
 私たちの先祖はたびたび痛ましい飢饉におびやかされてきましたが、なかでも江戸時代における享保十七年(1732)、天明四年(1784)、天保八年(1837)の三つの飢饉は、おびただしい犠牲者をだしたことで知られています。
 享保の凶作は西日本をおそったイナゴの被害によるもので、また天明の凶作は冷害によるものであり、天保のそれは多雨によるものでした。
 しかし天保の飢饉をのぞいては、これらの凶作は決して全国的なものではありませんでした。
 とくに享保の凶作は西日本のみで、東国はむしろ豊作であったのです。それなのに一方の豊作は、他の地方の不作を救うことにはならなかったのです。なぜなら豊作の藩は、藩内の米価の値上がりをおさえるために、米の移出を禁止したからです。
 もちろん幕府は飢饉のたびに救済に奔走しましたが、その救済の手がとどくまえに死に追いやられる人が多く、当時の農村の経済力がいかに弱く、幕府や藩の飢饉対策がいかに遅れていたかが想像できます。
 飢饉がいちおう過ぎても、簡単には農民の暮らしは立ち直りませんでした。そのあとではげしい悪疫の流行を伴うのが当時の飢饉の通例で、ようやく食いつないできた人々もそのために死んでしまうのです。
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