■ 明智光秀 ■
 
逆臣・光秀の理由
 
 主君・織田信長を討ったことで「逆臣」の名も高い明智光秀の経歴には謎の部分が多く、光秀が信長に仕えるまでの動静はきわめてあいまいです。
 ともかく光秀が信長に仕えたのは1566年であり、その翌年、信長の命により滝川一益勢に加わって北陸に従軍、以後、伊勢近江丹波に戦って武名をあげました。
 一介の牢人の身で信長に仕えたにもかかわらず、1574年には日向守となり、翌年にはさらに丹波国を与えられていることからも、光秀が信長配下の非凡な武将であったことがうかがえます。
 丹波国を与えられたものの、領内の諸豪族の抵抗は強く、光秀は戦いに明け暮れる毎日を送ります。
 1582年、甲斐の武田勝頼討伐のため信長は安土城を発ち、光秀もこれに従います。武田氏を滅ばして安土へ帰った信長は、徳川家康と穴山梅雪が訪ねてくることになったので、光秀にその接待役を申し付けました。ところが信長は突然その接待役を堀久太郎に替えてしまいます。理由は光秀が魚を腐らせたとも贅を尽くしすぎたとも伝えられていますが、そればかりではなかったでしょう。
 接待役を延免ぜられた光秀は、毛利を攻めている秀吉への援軍として中国へ出陣するように申し渡されます。
 ところが、光秀は中国へ出陣すると見せかけて、本能寺へ突進したのです。
 信長が宿舎としていた本能寺には防備らしい防備はなく、手勢も二百人を過ぎませんでした。武田を滅ぼしたのちの信長は油断していたのでしょう。
 信長は弓をとり槍をとり、阿修羅の奮戦をしましたが、力尽き火中で自刃して果てました。
 光秀謀反の理由としては、信長にさんざん恥をかかされたことへの恨みからというのが通説となっていますが、武将の扱い方を知っていた信長が大身の光秀を子供じみたいじめ方をするとは思えません。
 それよりは光秀ははじめから天下を狙っていたとするほうが納得がいくのではないでしょうか。
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