「元寇」として有名な蒙古軍と鎌倉武士との戦いは、文永の役と弘安の役という二つの戦いから構成されます。元寇は結果的には日本側の勝利として知られていますが、実際には文永の役が始まった直後、日本軍は大敗北を喫していたのです。
勇猛果敢な鎌倉武士がなぜ蒙古軍に歯が立たなかったのでしょうか。それにはまず武器の違いが指摘されます。蒙古軍の弓は全長が一七〇センチと短く、発射までの時間が短くて済みました。蒙古軍の弓で三本の弓を放つ間に、日本の弓では一本しか放つことができなかったのです。また蒙古軍の弓は鯨のひげを張り合わせて作られており、竹でできた日本の弓よりも弾力性に優れ、矢の威力を大きくすることができたのです。
さらに蒙古軍は、それまで日本人が見たことのない「てつはう」という武器を使いました。これは手榴弾のような働きをする直径一五センチほどの弾で、殺傷能力を高めるための突起がいくつもついていました。
また戦い方の違いも大きな原因となりました。鎌倉武士は戦場に着くとすぐ戦い始めるわけではなく、まずこれから戦うのは自分であることを高らかに宣言します。「やあやあ我こそは…」と祖先の名前からはじまって長々と自己紹介を行い、儀式用の鏑矢を放った後、ようやく戦いが始まるのが常でした。ところが蒙古軍には当然そんな慣習はないので、日本側が鏑矢の儀式を行っている最中にいきなり襲いかかってきたといいます。また銅鑼や太鼓の合図で一斉に動くモンゴルの戦い方は、一対一の戦いに慣れた鎌倉武士を驚かせました。
その日本を救ったのがたまたま吹き荒れた大嵐だったのです。海の上で待機していた九〇〇隻の蒙古軍は壊滅的打撃を受け、日本に思わぬ勝利が転がり込んできたのです。
暴風雨に助けられ、辛うじて一回目の蒙古襲来を乗り切った鎌倉幕府は、蒙古軍が再び攻めてくるのを恐れて、九州の武士たちに高さ三メートル、長さ二十キロにも及ぶ石のバリケードを博多湾沿いに作らせました。石の切り出しから築造まで、武士たちは多くの労働と出費を強いられました。さらに武士たちは築いた後の警備も担当しなければなりませんでした。
こうした中、弘安四年(1281)、2回目の蒙古襲来が現実となり、戦いではこの石築地が大きな効果をあげました。海岸に迫った蒙古軍は、石築地のために上陸することができなかったのです。蒙古軍は唯一、石築地が築かれていなかった志賀島に上陸しましたが、七日間に及ぶ激戦の末、ついに蒙古軍を撃退。さらに暴風雨が蒙古軍に追い討ちをかけ、十四万の大軍は大きな打撃を受けます。
二回にわたる蒙古襲来を切り抜けた鎌倉幕府ですが、今度は戦後処理に悩まされます。通常は戦に勝てば、敵から奪い取った土地が恩賞として分け与えられますが、この戦いでは当然、新たに得た土地などありません。
実は当時の武士は日々の食事に困るほど貧しく、新たな恩賞がなければとても生活を維持できなかったような状況でした。恩賞目当てで必死に戦った武士たちに満足に恩賞を与えることが出来なかった鎌倉幕府は、彼らの信頼を失い、元弘三年(1333)、蒙古襲来から五十年後に滅ぶのです。
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