平盛嗣という人物をご存知でしょうか?平家物語では、越中次郎兵衛盛嗣という名で登場し、数々の合戦で活躍した平家屈指の武将ですが、あまり一般には知られていない気がします。
壇ノ浦の合戦の後、彼は落ち延び、但馬国に潜みますが、建久五年(1194年)に捕らえられ、処刑されます。
越中次郎兵衛盛嗣の名からも察せられるとおり、彼は、越中守・平盛俊の次男の左兵衛尉で、平清盛の側近であった平盛国の孫にあたります。父の盛俊も勇猛な武将として有名でした。
平盛嗣については、平家物語にも多くの記述があります。有名なのは屋島の合戦での伊勢三郎との詞戦でしょう。
壇ノ浦の合戦後、盛嗣は、一度、平盛久らと共に都に潜入しますが、都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後、彼は、城崎郡気比庄を本拠とする気比権守こと日下部道弘の屋敷にもぐりこみ、馬飼いとなったといいます。ところが、いつしか彼は道弘の娘の許に通うようになり、道弘の婿となります。道弘は、彼がかの越中次郎兵衛であると気がついていたが、黙認していたとか。
一方、鎌倉方は盛嗣の居所を厳しく追及しており、頼朝は、「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したと平家物語(延慶本)にあります。そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。
捕らえられ鎌倉に送られた盛嗣は、「今は運つきてかように搦め召し候上は、力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と頼朝に言ったとか。その立派な態度に、頼朝は盛嗣を助けて召し使おうと思いましたが、彼は平家の侍の中で一・二の者であり、「虎を養う愁いあり」として、ついに由比ヶ浜で斬ったといいます。 |