信長は幼名を吉法師といい、1546年に十三歳で元服した後は、三郎信長と名乗りました。
初陣は翌年の三州大浜攻めでした。このころの信長は、半袴にヒウチ袋などいろいろなものを下げ、太刀は朱鞘、その他身につけるものことごとく赤色という異様な風体をし、馬上で柿や梨をかじり、町中を餅をほおばりながら歩くなど、全くの変わり者でした。
近国の者はこれを見て「大うつけ者」と信長を呼びました。しかしその一方で信長は決して武技の修練を怠らなかったといいます。
信長は近国の者に警戒されないため、わざと「うつけ者」を演じたという説もありますが、形式万能主義の風潮への青年らしい抵抗ととるのが妥当なようです。
1549年、父・信秀が没し、信長が家督を継ぎました。信秀の法事のとき、信長が縄帯のまま袴もつけず仏前へ進み出て、香を仏前に掴み投げてぷいと立ち去ったという話は有名です。
その後も信長の行状は一向に改まらず、このため信長に見切りをつけて織田家を去る者が続出しました。しかし信長はむしろこの事態を望んでいました。織田氏の飛躍のためには、絶対に信頼できる家来だけに残ってほしかったのです。
そののちの信長は「大うつけ者」から一転して、野心に燃える気鋭の青年武将となりました。
1560年桶狭間において、わずか三千の兵で今川義元の二万五千の兵に打ち勝った信長は、その武勇を一躍とどろかせ、上洛を志すに至ります。 |