足利直義は足利尊氏の同母弟にあたります。しかし二人の性格はまるきり正反対で、振幅が大きい尊氏に対し、直義は峻厳で公平な官僚肌でした。
1336年、北朝の下での武家政治に踏み切ったとき、戦争は尊氏、政治は直義という分業が確立しました。兄から政治を任された直義は、誠実に厳格にそれを勤めました。
当時の政治の中心は、土地所有をめぐる争いを裁くことでした。彼の裁きは原則的で公平であったというのが、当時から現代にいたるまでの一致した評価です。
しかし、たとえよい裁判をしても、ほめられるのは兄・尊氏であり、また逆に裁判が批評されるときには、直義が咎められるという傾向がありました。要するに尊氏は幕府のシンボルであり、直義は憎まれ役でした。
もし直義が最初から最後までそういう役割に徹していれば、彼はそれなりに幸せであったかもしれません。しかし彼と兄の執事・高師直との対立は、ついに兄弟の正面衝突へと発展してしまいます。
しかしそうなっても常に直義は兄に気を使い、損な役割を演じます。観応の擾乱の真っ只中の1351年、尊氏は弟との戦に敗れますが、京都での講和会議ではあたかも勝利者のごとく直義の執事・上杉能憲の死罪を主張。直義は兄をなだめすかして、流罪で勘弁してもらっています。
尊氏には負けたという意識はなく、直義がそういう兄を理解し、それで済ませてやったのです。
しかし反対の場合はそうはいきませんでした。同年、兄弟は再び決裂。尊氏は南朝と講和して直義を攻め、降伏した直義を尊氏は毒殺します。 |