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「歌合」とは、左右二つに分かれた貴族が、互いに持ち寄った和歌の優劣を競い合う宴のことです。とはいえ歌合は歌の優劣を競うだけでなく、衣装、そこに焚き込める香、その他の小道具など、それぞれのチームのセンス全般を競い合うものでした。平安時代に五〇〇回ぐらい行われているこうした歌合の中でも、九六〇年に村上天皇が開催した天徳内裏歌合は、もっとも華やかな宴として後々まで語り継がれました。
歌合の一ヶ月前、主催者の天皇から和歌の「御題」が発表され、両チームは歌合までに御題に合わせた和歌を用意します。実際に和歌を作るのは歌合の会場に出席する貴族とは限らず、それぞれのチームが選りすぐりの歌人を集め、自分の代わりに歌を作らせたのです。天徳内裏歌合は、左方の公卿が藤原氏、そして右方の公卿が源氏という、当時の政界で覇権を争っていた両氏による戦いの場でもありました。貴族社会では、政治だけでなく文化的にもリードすることで、初めて真の支配者となることができたのです。
歌合に勝つために両チームは優れた歌人を揃えようとします。天徳内裏歌合では藤原氏は壬生忠見(みぶのただみ)を、源氏は平兼盛(たいらのかねもり)を抜擢します。ところが二人とも身分が低いため、昇殿の資格はなく、歌合の最中は御所の外で結果を待っていたようです。この二人はトリとなる20番目の勝負でそれぞれ名歌を生み、和歌史上最大の名勝負となりました。
左「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか」
右「忍ぶれど色にいでけり我が恋は ものや思ふと人の問ふまで」
双方とも屈指の名歌であり、判定役の左大臣・藤原実頼は勝敗を定めかねていましたが、村上天皇が御簾の中で右の歌を呟いたことで、最後の勝負は右(平兼盛)の勝利に終わりました。判定では右の勝利でしたが、両歌とも小倉百人一首に入れられており、後世でも高い評価を得ています。総合成績では左方(藤原氏)の勝利でこの歌合は幕を閉じました。
最後の大勝負で敗れた壬生忠見は拒食症になって他界。一方の平兼盛はこれを契機に出世し、また歌合の常連としても八〇歳過ぎまで活躍しました。 | |