十二世紀の中ごろ、皇位をめぐって後白河天皇と崇徳上皇が対立し、同じ頃、藤原摂関家でも家督争いが起きていました。
藤原忠実は長男の忠通に一度は家督を継がせ、近衛天皇在任中は忠通が関白を務めますが、次第に次男の頼長に期待するようになった忠実は、事あるごとに忠通に引退をすすめるようになります。
これを拒否する忠通を忠実は勘当して藤原家の氏長者の地位を剥奪、次男・頼長をその地位に付け、さらに翌年無理を通して頼長を内覧にしてしまいます。こうして、関白がいるのに別に内覧もいるという変則的な事態が発生するのです。
保元元年(1156)に鳥羽法皇が亡くなると、天皇側には藤原忠通・源義朝・平清盛が、上皇側には藤原頼長・源為義・平忠正らがついて戦い、天皇側が勝利を得ます。これが保元の乱です。
この戦いで藤原頼長は死去しますが、彼が日記『台記』に詳細な男色関係を書き残したことは、江戸時代から注目されてきました。
院政期、男色は広く貴族社会に浸透していきました。その原因として、男性優位の家父長的な婚姻関係や家が、未成熟ながらも成立したことがあげられます。
それまで対等であった男女の性愛に大きな変容が生まれ始めたのが、十世紀でした。そして十一世紀には貴族層女性への禁欲的生活が強制されていきます。
こうして男女間の性愛が不平等になると、逆に対等な人間同士の性愛の模索が始まります。その一つが男色ではないかと指摘されています。
また、頼長をめぐる男色関係は、院政期の政治的諸事件の背景ともなっており、こうした関係が、主従関係や政治勢力の伸張などの機能もはたしていたことが伺えます。 |