■ 流人・頼朝の半生 ■
 
 源頼朝は1147年、左馬頭義朝の三男として出生しました。
 義朝は保元の乱で平清盛とともに天皇側について、上皇側についた父や弟を自ら殺した人物でした。
 ところが保元の乱の後、播磨守に任ぜられた清盛に不満を抱いた義朝は、平治元年、平清盛が都を留守にしたのを機に挙兵します。しかし平氏の機敏な反撃に義朝は破れ、東国へ逃れる途中、殺されて首を都へ送られてしまいます。
 義朝に従っていた十三歳の頼朝も生け捕られ、当時のならいとして首を落とされる運命にありましたが、たまたま頼朝の面影が、清盛の継母・池ノ禅尼の亡児によく似ていたことから、尼の嘆願によって助命され、伊豆へ配流されました。今若、乙若、牛若も、母・常盤御前が清盛に身を任せたことにより、助命され寺へ送られました。思えばこれが後の平氏の滅亡を招いたのでした。
 伊豆へ流された頼朝は、伊豆の豪族・伊藤祐親の屋敷に起居していましたが、祐親の娘と通じ、男児を生ませます。 平家を恐れた祐親は、その子を水に投じ、さらに頼朝にも追手を差し向けましたが、危うく脱出し北条時政の屋敷へ逃れます。
 野心家で時勢を洞察する眼のあった時政は、頼朝を丁重に迎えます。頼朝はここでも時政の娘・政子と通じますが、時政はあえて二人の仲を裂こうとはしませんでした。
 1180年、平氏の専横にたまりかねた以仁王は、諸国の源氏に平家追討の令旨を発しました。
 配所にあること二十年、読経に明け暮れていた頼朝でしたが、挙兵を決意し、源氏の巻き返しが始まるのです。
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