■ 義経の末路 ■
 
 文治元年(1185)は、鎌倉殿・頼朝の重みを王朝側に認識させる、大きな契機の年となりました。そして、義経にとっては勝者から敗者への転換期でした。平氏追討に多大な貢献をした義経は、皮肉なことにその敗者の面においても、頼朝にさらなる武威を授けることとなったのです。
 平氏滅亡後、頼朝は義経に警戒の念を抱き始めていました。京にあって院の昇殿まで許された義経は、危険と映ずるまで成長していたのです。
 兄弟の破局が決定的段階を迎えたのは、文治元年十月の頼朝による義経暗殺計画でした。計画は失敗。院により頼朝追討宣旨が義経に下されますが、義経は思うように兵を集めることができません。
 文治元年十一月、京都からの撤退を余儀なくされた義経は、叔父・行家と共に四国を目指し、摂津大物浦から船出します。しかし暴風雨で四散。行家はその後潜伏先の和泉国で捕らえられ、斬られます。義経も愛妾・静をふくむわずかな従者と共に吉野へ逃亡しますが、静は捕らえられ、鎌倉へ護送されます。
 文治三年、頼朝は義経の平泉入りの情報を得ます。頼朝にとっては最も恐れていたことが現実となったのです。頼朝は速やかに奥州の動向を探らせます。
 ところが、奥州と義経の結合という最悪の事態が転換に向かったのは、この年の冬でした。秀衡の死去という歴史の偶然で、頼朝に好機が訪れたのです。「義経を大将軍として、一族が協力し頼朝に対抗すべき」という秀衡の遺言も、そのとおりにはいきませんでした。
 頼朝は宣旨と下文という手段で奥州に動揺を与え続けます。朝廷からの要求と頼朝の武力的圧力に耐え切れなかった泰衡は、奥州の危機を回避するため、ついに文治五年、義経の衣川の館を急襲し、義経は敗死します。
 しかし奥州の完全制圧を目論んでいた頼朝は、その年の秋、奥州侵攻を開始。奥州藤原氏は滅亡します。
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