初めて黄瀬川で弟・義経に会ったときは、泣いて喜んだといわれる頼朝が、なぜ弟の義経を憎むようになったのでしょうか?
第一に考えられるのは、梶原景時の讒言です。頼朝にとって梶原は、石橋山の戦いに敗れたときに命を助けてくれた恩人であるため、頼朝は彼の言うことを信用しました。しかし、この梶原という人物、告げ口が大好きで、そのために多くの人が苦しめられることになります。平家との合戦の際、自分の提案が義経に取り入れてもらえなかったことを根に持った景時は、頼朝に義経の行状を讒言し、それらの讒言はことごとく頼朝に信用されてしまうのです。
しかし第二には、義経が古今にすぐれた将軍であり、めざましい手柄を立てたことが、頼朝には気に入らなかったことが挙げられます。義仲を討ち、一の谷を落とし、屋島に勝ち、壇ノ浦に勝つ、こうした戦の勝利は、ことごとく義経によって得られたものでした。それ故に世間の人々は、鎌倉にいるだけの頼朝よりも義経を評価したといいます。戦には強く、それでいて人々には親切であった義経に、人望があるのは当然のことでした。
第三には、朝廷が自発的に義経に官位を与えたことが挙げられます。というのも、頼朝は一の谷の合戦の後、数名に官位を授けるように朝廷に申請していますが、そこになぜか最も軍功のあった義経の名がなく、気の毒に思った朝廷が義経を昇進させたのです。しかし、すべての武士を自分の統制下に置きたい頼朝にとっては、自分の推薦もなく、武士が勝手に朝廷から官位をもらうことは、許せないことだったのです。
第四には、義経が自分の弟であることでした。頼朝としては、自分は源氏の嫡流であり、一門の棟梁であるから、弟であろうとも自分と肩を並べるのは許せないのです。その証拠に、頼朝の弟である範頼も、兄により殺される運命を辿ります。
このように、義経が兄・頼朝に憎まれるのは、自分ではどうしようもないことが原因でした。しかし義経が、頼朝の憎しみにより窮地に陥っても、四・五年の間、逃げ歩くことができたのは、彼に人望があり、見逃がしてくれる者が多かったからだと言えます。
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