■ 遊女 ■
 
いなか道八丁あるくおもしろさ
 
 遊女の歴史は奈良時代の妥女にまでさかのぼることができます。これは宮中に置かれた妥女部に、諸国から容姿端麗な美女たちが集められ、外賓の来朝時や宮中での宴、旅愁の慰めなどに当てられたもので、これらの女たちを妥女と呼び、いってみれば官営遊女屋でした。また、民間にも宇加礼女(うかれめ)、阿曽比女(あそびめ)と呼ばれる女たちがいて、宴席に招かれては舞曲や今様などを演じて座を取り持ち、情も売っていたようです。
 しかし、遊里が大衆文化発生の中心となり、遊女がその担い手としてアイドル化されるのは、廓制度が発足する江戸時代に入ってからになります。
 徳川幕府は風紀上の理由から、それまで市中に存在した遊里を人里離れた場所に移し、一定地域にまとめて公認する政策をとり、一般市民の眼から遠ざけようとしました。その結果生まれたのが廓で、京の島原、大阪の新町、江戸の吉原の三大遊郭のほか、全国の城下町にもそれぞれ公認の廓が設けられるようになりました。
 ところが、吉原への田舎道はいつしか土手八丁と呼ばれ、あたかも吉原への花道ででもあるかのような具合になり、遠くに移せば自然に市民の足が遠のくだろうという幕府の思惑は見事に外れたのでした。
 吉原の遊女の最高の位が太夫であり、容姿、教養、諸芸にすぐれた者がこの位につくことができましたが、俗に吉原の遊女三千人といわれたなかで、太夫の位につけるものはわずか数名にすぎないという、権威のあるものでした。

参考文献『江戸歌舞伎の周辺』津田類著
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